ボリビアへ渡った日本人たち

たばこと塩の博物館『魅惑のボリビア』より抜粋

【初期の日本人移民】
1899(明治32)年2月27日、ペルーへ向う790人の日本人移民が「佐倉丸」(日本郵船会社)で横浜港を出航した。彼らは、移民団を組織した森岡 商会という移民会社と契約を結んだ契約移民で、その契約内容は「ペルーの甘蔗耕地あるいは精糖工場で4年間働き、その報酬として一ヵ月2ポンド10シリン グ(約25円)に相当するペルー貨を支給される」というものだった。
佐倉丸は4月3日にペルーのカリャオ港に入港、その翌日から沿岸を航行し、移民を12ヶ所の耕地に送っていった。しかし、この移民達の期待はすぐに裏切 られることとなった。ペルーの受け入れ側の移民に対する意識や日本人そのものに対する認識不足、一方の日本人移民の側の、現地の言葉や自分たちが働こうと しているペルーという国についての予備知識の不足などによって、両者の間で何度も対立が起こり、移民の中には逃亡するものも少なくなかった。こうしたペ ルーから逃亡した移民の中で、4,000m以上ものアンデス山脈を越えてボリビアへ再移住した人々が、ボリビアへの最初の日本人移民となった。
当時、アマゾン地方は空前の天然ゴムブームに湧いていた。この頃ゴムといえば天然ゴムだけであり、第一次世界大戦前の世界的なゴム需要に、その産地であ るアマゾン地方は活況を呈していたのである。こうしたゴムブームの中にあったボリビア国内のベニ県に、ペルーからの移民91人がはじめてやって来たのは、 1899年9月のことであった。
ボリビアへの最初の日本人移民たちの大部分はやがて引き揚げていったが、その後もゴム景気につられたペルーからの転入者は後を絶たず、ベニ県のゴムの集 積地であったリベラルタという町周辺に住み着いて、ゴムの採集労働に従事する人も多かった。1918年には、ボリビア国内の日本人移民の総数は800人強 となり、そのうち約700人がリベラルタ周辺に居住していたともいわれている。
やがて、こうした南米のゴム生産も、東南アジアでゴム栽培が始められた影響から陰りをみせはじめ、第一次世界大戦終了時(1918)にはアマゾン奥地の ゴムブームは完全に終わりを迎え、ゴム景気にひかれてリベラルタへ集まってきていた日本人もボリビア国外に出たり、ラ・パス、トリニダなどに転住して、 1923年には250人程にまで減ってしまった。ボリビアに残った日本人たちは、ほとんど皆が単身者であったので、ボリビア人と結ばれて各地に定住し、健 全な家庭を作って、商業活動等に従事していった。そして各地に日本人会を設立し、1932年から35年までボリビア・パラグアイ間で勃発した「チャコ戦 争」では、これらの日本人会が率先して政府に献金するなどして、ボリビアにおける地歩固めに全力を尽くしていた。
1941年、太平洋戦争が勃発すると、ボリビアは、アメリカ合衆国の圧力により翌年の4月6日に宣戦を布告し、日本との敵対関係に入った。その結果、日 本人に対して経済活動の制限や資産凍結を行ったり、またアメリカ合衆国政府によりアメリカ本土に連行され抑留されることもあったが、一般国民は極めて友好 的であった。

【コロニア・オキナワ】
太平洋戦争末期、沖縄は日本で唯一の地上戦場となった。多くの民間人が亡くなり、戦闘が行われたところは焼け野原、さらには日本の敗戦により1971年 まで米軍による占領状態が続くことになった。こうした沖縄の惨状に、誰よりも先に救援の手を差し伸べたのは、自身も第二次大戦中に苦難の時を過ごしたボリ ビアの日本人移住者たちであった。
ラ・パスやリベラルタに住む日本人の中には沖縄からの出身者がおり、彼らは母国への救援活動を目的として、それぞれ新しく協会を設立し、救援資金や物資 を送り始めた。また当時の沖縄は、米軍基地建設のために主要耕作地が奪われ、農地が不足する状態にあったことから、沖縄の戦災民に対してボリビアへの移住 を呼びかけ、一方で入植地の調査を開始し、サンタ・クルスの近郊の土地を移住地として選定した。
このように、ボリビア在住の日本人を中心に進められた、沖縄県人のボリビアへの移民計画を引き継いだ琉球政府は、1954年3月、「南米ボリビア農業移 民募集」を制定し、移民募集を開始した。そして、6月19日、約4,000人の応募者の中から選ばれた第一次計画移民275人を乗せたチサダネ号(ロイヤ ル汽船)が、那覇港南岸の軍桟橋を発った。
チサダネ号はアフリカ周りの航路をとり、1954年8月6日、ブラジル・サントス港に入港した。そして、同日サントス駅から列車でボリビアへと向かい、 一週間の旅の後、8月14日、終点のパイロンに到着した。そして8月15日には、彼らのために選定された土地「うるま移住地」に入り、すぐに同地の開拓を 開始したが、この土地は全くの原生林の中にあり、井戸を掘るまでは飲み水にも困るという有り様であった。12月になると、今度は病人が続出するようになっ た。後日「うるま病」と名づけられたこの伝染病に対し、ボリビア国内の日本人の他、ブラジルやアメリカ、ペルーなどからも援助の医薬品や食料が運ばれ、ま た医師団も派遣されてきたが、翌年4月までに15人が死亡した。
うるま病から逃れるため、移住者たちは「うるま移住地」を放棄し、6月パロメティリアに転住を開始した。しかし、結局ここも安住の地とはならず、再度新 しい移住地への移動が行われた。そして、1956年中には移住者全員の移動が完了し、翌57年にボリビア政府の認可を得て「コロニア・オキナワ」の基礎が 確定した。その後1969年の第19次移住者まで合計3,231人が琉球政府の計画移民としてボリビアに入っていったが、こうした移住者たちには十分な広 さの耕地は割り当てられず、半数以上の者はブラジルやアルゼンチンに転住していった。
現在「コロニア・オキナワ」では、大豆を中心とした雑作を行い、それに畜産を組み合わせた機械化による大規模経営が行われている。特に大豆はボリビア最 大の栽培面積を誇り、国内最大規模の飼料・搾油工場とサイロを稼動して、ボリビアの有望な輸出産物に成長している。また、「コロニア・オキナワ」には第1 次、第2次、第3次移住地があり、現在では沖縄県の農地面積をも凌ぐ6万ヘクタールもの農耕面積を有するまでに発展している。

【サン・ファン移住地】
1952年の「ボリビア革命」で大統領に就任したビクトル・パス・エステンソロは、鉱山の国有化、産業の多角化、農地改革などの政策を掲げていたが、そ れを遂行できるだけの十分な労働力が当時のボリビア国内になかったことから、他国からの移住者誘致に積極的な姿勢をとっていた。当時、日本で精糖業を経営 していた西川利道は、こうしたボリビア側の政策に注目し、自身もボリビアに進出して精糖業を興す希望を持ったことから「ボリビア国サンタクルス日本人移住 計画書」を起案した。西川の呼びかけに集まった14家族88名は1955年7月、ボリビアへの入植を果たした。この西川利道に率いられた移民団は「西川移 民」と称され、翌1956年8月2日に日本とボリビアの間で結ばれた「日本・ボリビア移住協定」に基づいて、1969年まで続く計画移民とは区別されてい る。
西川移民はサン・ファンに入植したが、この移住地も「コロニア・オキナワ」同様、原生林のまっただなかの土地であったため、森を切り拓くことから始めな ければならなかった。そして、その労働の過酷さや降り止まない雨といった環境の悪さのため、多くの人はブラジルやアルゼンチンへ去り、またある人は日本へ 引き揚げていった。しかし、1970年代からは養鶏営農の定着と機械化が促進され、多角化・機械化による規模拡大で農業経営も軌道に乗って安定するように なった。現在では、米・大豆・養鶏・柑橘類の栽培でボリビア国内有数の生産地となっている。

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