歴史的背景

たばこと塩の博物館『魅惑のボリビア』より抜粋

【先スペイン期】
スペイン人による征服以前のボリビアの歴史については、ティアワナコ文化について取り上げ荒れるだけで、それ以外のことについてはあまり詳しくはわかっ ていない。しかし、特にアルティプラーノにおいては、後のティアワナコ文化の元となるような古い文化の痕跡が残されており、それらの中には少なくとも約 3,000年前まで遡ることができるものもある
ティアワナコは、ボリビアだけでなくアンデスの歴史を語るうえでも重要な文化で、ティティカカ湖から南東数kmのところに広大な遺跡が残されている。 ティティカカ湖周辺にはすでに紀元前より人が住んでいたが、紀元500年ごろからアイマラ系の人々によって大神殿などの建設が行われはじめた。そして、9 世紀から11世紀にかけてティアワナコ文化は、全盛期を迎え、その影響は中央アンデス全域にまで拡大していった。
このティアワナコ文化の拡大により、アルティプラーノの人々とボリビア東部のアマゾン地方を拠点としていたグアラニ、あるいはチキート、モホという狩 猟・採集を主とする人々との接触が持たれるようになり、時には戦闘も行われた。しかし、その地理的条件などからティアワナコの影響は最小限にとどまり、以 後彼らは他の部族の支配を受けることなく独自の生活を送っていた。
一方、13世紀はじめにペルーのクスコ周辺から発生した、ケチュア系の人々による「インカ帝国」は、急速にその版図を拡大していった。やがてその勢力は ティティカカ湖周辺にもおよび、15世紀に入るとティアワナコを中心としたアイマラ系の人々の地はその勢力図に組み入れられてしまった。なお、アルティプ ラーノに対するインカの支配は、第11代王ワイナ・カパックの時代(在位1493-1525)に頂点に達した。

ティアワナコ遺跡
現在、遺跡として残されている中にある、祭祀場の跡とされる主要基壇・カラササヤには、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、両手で儀仗や儀器を捧げ もった大型石彫が立てられている。また、カラササヤの側には、様々な表情をした丸彫りの人頭像が壁面にはめ込まれた「半地下神殿」がある。遺跡周辺には、 水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行われていたことが伺える。

【スペイン人による征服】
16世紀に入ると、中南米の先住民文化が栄えていた地域周辺にスペイン人たちが姿を現すようになり、1521年のメキシコ・アステカ王国の征服をはじめとして、各地で征服活動が繰り広げられた。
1533年に「インカ帝国」を征服したフランシスコ・ピサロに率いられたスペイン人の一行は、更なる富を求めてアンデス奥地にまでその歩を進めていっ た。当初ボリビアの地は、ピサロとともにインカを征服したディエゴ・デ・アルマグロの支配地となった、ヌエバ・トレドと呼ばれた領域の中に含まれていた。 しかし、スペイン人たちが、征服していった先住民たちの土地に自分たちの町を建設し、その支配体制を整えていくと、現在のボリビアはペルー副王領の中に組 み込まれ、「アルト・ペルー」と呼ばれるようになった。
そして、1559年にチャルカス(現在のスクレ)にアウディエンシア(聴問庁)が設置されると、アルト・ペルーの大部分はその管轄下に入れられた。な お、それ以南の地域も当初はペルー副王領の管轄下にあったが、1776年にリオ・デ・プラタ副王領が新たに創設されると、アルゼンチン、パラグアイ、ウル グアイはその中に編入された。

ポトシの銀
1545年に発見されたポトシのセロ・リコ山の銀鉱脈は、やがて膨大な量の銀を産出し始めた。ポトシの町は鉱山が発見されて1年後の1546年に建設さ れたが、1650年頃には推定人口約16万を抱える大都市に成長していた。ちなみに、当時のスペイン本国の都市人口が首都のマドリードで約5万人、バルセ ロナで約3万人と推定されていることからも、ポトシの町の繁栄ぶりが伺える。
セロ・リコの銀山では、1570年に金銀の精錬法のひとつであるアマルガム法が導入され、またミタ制という先住民の強制労働力徴発制度が行われたことに より、その産出量が飛躍的に増えた。産出された銀は、ポトシの町で精錬・鋳造され、太平洋のアリカまで陸路で運ばれ、同港からカリャオ港を経由し、パナマ へ向った。そしてパナマ地域を太平洋岸から大西洋側まで陸路で運ばれた後、再度船積みされてハバナなどで他のスペイン植民地からの船と合流し、大船団を組 んでスペイン本国まで運ばれていった。しかし、スペインへもたらされた膨大な量の銀のかなりの量はスペイン本国内に留まることはなく、当時スペイン国王が ヨーロッパ各地で行っていた戦争に必要な経費の借金返済に充てられた。ドイツの金融業者などの手を経て他の国々へと流れていった銀は、当時のヨーロッパ経 済に大きな影響を与えることになった。
ポトシ銀の産出量は16世紀末に最大となったが、17世紀に入ると減少に転じ、18世紀にはいると急速に衰退した。そして19世紀初頭の独立戦争でさら に荒廃は進み、かつての栄華は完全に忘れ去られたようになってしまったが、今世紀に入ってからは錫鉱山として再び発展の兆しを見せ始めている。

【スペインからの独立】
スペインによる統治が進むにつれ、植民地内部では、政治権力の中枢が少数の本国生まれのスペイン人に握られていることに対して、植民地生まれのスペイン 人・クリオーリョたちの不満が高まっていった。こうしたクリオーリョたちの不満は、やがてスペイン本国から独立して自分たちの国を作ろうという動きとな り、1809年、遂にチュキサカ(元チャルカス・現スクレ)において独立運動が勃発した。このときの運動はすぐに鎮圧されてしまったが、独立に向けての気 運自体が消えてしまったわけではなかった。
ボリビアの独立は、ベネズエラ、コロンビア、ペルーなどを独立させたシモン・ボリバル麾下のスクレ将軍率いる軍隊により、1825年に達成された。独立 宣言は8月6日に行われ、ボリバルにちなんでボリビアと名づけられた新生国家が誕生したのである。なお、この翌年にはボリバル起草による憲法が採択され、 スクレ将軍が終身大統領に選ばれたが、彼は1827年に起こった内乱により国外追放となり、国内秩序の確立は後継者として選ばれたサンタ・クルス将軍の手 に委ねられることとなった。

【ボリビア革命から軍政、そして民政へ】
19世紀後半のボリビアは、都市部に住む民衆を支持基盤とした指導者(カウディーリョ)たちが入れ替わり交代する、政情不安の時代となった。また、アタ カマ砂漠の硝石やグアノ(熱帯の海岸や島に生息する鳥の糞が堆積したもので、リン酸肥料として活用される)の利益をめぐってチリとの間で勃発した「太平洋 戦争」(1879~83)、アマゾン上流アクレ地区のゴム採集者たちの反乱を契機として起こったブラジルとの「アクレ戦争」(1899~1903)、そし て南部の広大なチャコ地方をめぐってパラグアイとの間で起こった「チャコ戦争」(1932~35)という相次ぐ国際紛争の結果、ボリビアは広大な領土を失 い、海への出口を持たない内陸国となった。また国内政治も、相次ぐクーデタなどにより常に不安定な状態にあった。
こうした中、特におびただしい数の死者を出したチャコ戦争の敗北の結果、国民のナショナリズムが高揚し、政治的・社会的現実に目覚めることとなった。そ して1941年、チャコ戦争に参加した青年将校や都市部の中間層を中心として、政治変革を目指した民族主義的革命運動党(MNR)が結成された。
MNRは、中間層や農民をも含めた労働階級の支持を獲得して力を持つようになり、51年の大統領選挙では、党首のビクトル・パス・エステンソロが当選す るまでになった。しかし、軍部はこの選挙結果を認めずクーデタを起こして政権を掌握した。これに対してMNRに率いられた鉱山労働者や市民たちが1952 年4月9日、ついに武装蜂起し、軍部を圧倒して臨時政府を樹立、15日にはエステンソロが亡命先から帰国して大統領に就任するという、いわゆる「ボリビア 革命」が起こった。こうして政権の座についたMNRは、錫鉱山の国有化、農地改革、旧軍隊の解体、文盲者への選挙権付与を含む選挙制度の実施など、全面的 な社会改革に着手していくのである。
国民の消費水準を引き揚げると同時に開発をも進めていこうとするMNR政権が目指した社会主義路線は、やがて限界を迎えた。鉱山の国有化により生産は大 幅に低下、さらに農地改革によって農業の停滞が引き起こされた。その結果ボリビア経済は、国際収支の悪化、インフレなど深刻な事態に陥り、MNRの支持母 体のひとつである中間層に打撃を与えた。もはやMNR政権には、これ以上社会主義路線を進めていくだけの力はなく、国家資本主義への進路転換を余儀なくさ れていた。しかしこの路線転換は、結局労働者をはじめとするMNRの支持者の多くを離反させることになり、さらにMNR内部でも分裂が起こった。ついに 1964年、軍事クーデタが起こるとMNR政権は崩壊し、以後82年の民政移管まで軍事政権が続いた。
1964年から82年までのボリビアでは、クーデタにより数ヵ月で大統領が変わるという異常な事態が続き、政治的にも経済的にも壊滅的な危機的状況に あった。こうした状態に国民の不満も頂点に達し、文民政府を求める声が急速に強まっていった。すでに何等業績を上げることもできなくなっていた軍事政権 は、1982年10月に退陣し、民政への移管が実施され、民主的に政権の交替が行われるようになったのである。なおこの体制は現在も維持されている。

【先住民政権の成立】
2005/12に左派先住民指導者のモラレス社会主義運動党(MAS)候補が53.7%の得票で当選、貧富格差の是正、先住民の権利拡大を掲げて、新憲法制定の実現を目指し、野党の反対に対して南米諸国連合(UNASUR)の働きかけも合って合意に達し、2009年1月に新憲法の是非を問う国民投票と実施した。
その結果、先住民の権利拡大、地方分権推進、農地改革・土地所有制限、天然資源の国家所有などを定めた新憲法を61.43%支持を得て2月に発布し同時に実施した総選挙で64.22%の支持率で再選された。

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